「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 
村上春樹氏の『風の歌を聴け』の冒頭に当時の私は衝撃を受け、日本文学を学ぶことにした。
 
「時流からいって英語とか外国語の学科じゃないの?」
とアドバイスをくれる人もいたが、私は日本の文学を日本語を学びたいと思った。
 
今は文章指導を生業としている。
 
先日、生徒から「ので」と「から」の違いについて聞かれた。国語の試験の記述で文中に「ので」を使い、×をされたとのこと。なぜ、ここは「から」を使わなければいけないのか、どちらでも同じことではないのかということだった。
 
どちらも「理由・原因」を表す接続助詞だ。文法のテキストにもそう記載されている。テキストの例文も「安いので買った」「安いから買った」とあり、「ので」と「から」は同じ意味に取れる。これではテストでなぜ×をされたのかが生徒にはわからない。
 
昔使っていた文法の本やワークを本棚から引っ張り出して、調べてみた。しかしながら、どうにも納得のいく答えが得られない。
 
そこで、同じく文章指導を生業としている友人の先生に連絡をしてみる。
 
先生もいろいろ調べ尽くしてくださった。そうしてようやく「これなら納得できる!」という答えに辿りついた。
 

その後も、

「『~なので』の『な』は、断定の助動詞『だ』のレアケース『連体形』に接続詞『ので』がくっついていますね。」

 
などと、文法の話が繰り広げられた。
 
はっきりいって、多くの人にとっては「どっちだっていいじゃん」という話だと思う。
 
でも、こういうことを掘り下げるのが無性に楽しいのだ。
 
好きってこういうことなんだと思う。
 
掘り下げている時はあまり呼吸をしていないのか、わかった瞬間、
 
「あぁぁぁぁぁぁぁ、そういうことかぁぁぁぁぁ」
 
と、肩の力が一気に抜け呼吸が楽になる。
 
最近は、本を読んでいても文章中に「~から」、「~ので」が出てくる度に立ち止まる。
 
「使い方、合ってる!」「あっ!間違ってる!」
 
と、一喜一憂。たまらない。
 
何を楽しいと感じるのかは人それぞれ。
 
私はけっこう幸せなのではないだろうかと思うのだった。
 
~エッセイスト・ゆきんこ